自然言語処理や深層学習など、AIテクノロジー活用が注目されるデジタルマーケティング領域の最先端企業である博報堂テクノロジーズが、明治大学クリエイティブマーケティング論の講義を行った。博報堂テクノロジーズと大学が協業し、展開された白熱授業の様子をレポートする。
博報堂テクノロジーズ社員が、クリエイティブマーケティング論を講じる
今回、博報堂テクノロジーズのリサーチサイエンティストをゲストスピーカーとして招聘したのは、マーケティングサイエンスや消費者行動論の専門家である水野誠教授だ。明治大学の商学部で3年生、4年生向けに設置されている「クリエイティブ・マーケティング論B」の授業を担当している。
1980年から2003年にかけて、博報堂のマーケティング局や研究開発局に勤務していたこともある。近年における企業のマーケティング活動にも詳しく、インフルエンサー・マーケティングに関する論文なども発表している。
明治大学 商学部 教授 水野 誠氏
水野教授の講義では、毎年企業などからスペシャリストを招いている。今回ゲストスピーカーとして招かれたのは、博報堂テクノロジーズのプロダクト開発センターAI研究開発部 AIフロンティアリサーチチームに所属するリサーチサイエンティスト、岩井千妃呂さんだ。水野教授とは学会の縁で知己を得て、今回の授業に招聘された。
岩井さんは、一橋大学大学院経済学研究科を修了後、官公庁系シンクタンクで調査研究業務に従事。2020年に博報堂DYグループの一員で、デジタルマーケティングのリーディングカンパニーである「アイレップ」に転職した。自然言語処理・統計分析を主軸にリサーチサイエンティストとして活動した後、2022年から現職に就いている。
人工知能学会や情報処理学会で研究成果を発表するなど、アカデミズムとの関係は深いが、大学で学部生を前に授業を担当するのは初めての経験だ。事前の資料づくりにはかなり時間をかけた。登壇することには慣れているとはいえ、約100名の学生を前に最初は緊張したという。
株式会社博報堂テクノロジーズ
プロダクト開発センターAI研究開発部 AIフロンティアリサーチチーム
リサーチサイエンティスト 岩井千妃呂さん
博報堂テクノロジーズが取り組むAIプロダクトとは
受講生の中には、広告・マーケティングの分野で仕事をしたいと考える学生もいる。そこで、博報堂テクノロジーズとはどのような広告・マーケティングの事業を展開しているのか。まずは自社の事業紹介から講義は始まった。
同社は博報堂DYグループの開発体制の基盤として、博報堂DYグループ内から様々な専門性を持った社員がメンバーとして参画し、2022年4月に発足した会社である。マーケティング×テクノロジーによって、社会と生活者に新しい価値・体験を提供しつつ、世界一級のマーケティング×テクノロジー会社になることを目指していることなどが語られた。
デジタル化が急激に進む中、広告・マーケティング業界も従来の「枠売り」ではなく、進化が求められている。博報堂テクノロジーズは、フルファネル型のマーケティングを実現するために、「生活者発想」でものづくりを行うテクノロジー戦略会社を目指している。
学術機関と提携した講座・ワークショップの実施や技術コミュニティの支援、 スタートアップ企業とのオープンイノベーションにも積極的だ。その一例として、会津大学・福島テレビと連携したワークショップ、半熟仮想株式会社、東京工業大学 と連携したオープンソースソフトウェアの開発事例などが紹介された。今回の明治大学での授業も、産学連携の一環として捉えることができる。
岩井さんが属する博報堂テクノロジーズのプロダクト開発センターでは、社内やクライアント向けに、Google、Yahoo!、Amazonなどのインターネット広告のマーケティングを最適化するためのSaaSを提供している。そのコアにあるAIエンジン「Sophia AI」は岩井さんの属するAI研究開発部が独自に開発したものだ。具体的には運用型広告の入札などを自動最適化するシステムに同部が提供するAIプロダクトが使われている。
一方、広告クリエイティブの作成業務では、効果が低いクリエイティブが収益を圧迫する主要因となり、デジタル広告への接触頻度増加が伴うことで、クリエイティブの賞味期限が短縮しているという課題も語られた。
品質の高いクリエイティブを多く配信する必要があるが、クリエイティブ制作に関わる人的資源は限られる。そこでは、AI時代における革新的なクリエイティブ・ワークフローを開拓し、広告クリエイティブの価値を最大限に引き出すことが早急に求められている。
そのためAI研究開発部では、深層学習技術を用いて、コピー、画像、動画などの広告クリエイティブを生成し、その成果を評価する技術開発にも取り組んでいる。
博報堂テクノロジーズのAI領域の研究・事業内容を一通り紹介した後は、業界を俯瞰した視点から、インターネット広告業界の将来性と課題が語られた。
インターネット広告の市場規模は、この数年でマスコミ4媒体の広告費用を逆転し、広告全体の中でトップカテゴリに成長している。インターネット広告には、ターゲティング精度や配信の柔軟性といった従来の媒体にはない強みがあり、社会の急速なデジタル化の影響もあって市場は堅調に成長していることが指摘された。
岩井さんは、講義対象が学部生であることからディスプレイ広告・動画広告・リスティング広告などのインターネット広告のフォーマットの種類や、インターネット広告の成果を測る様々な指標についても概要を説明した。
広告が課題解決に貢献したかどうかを判断するためには、課題に対応した指標やKPIを用いて広告効果を分析する必要がある。岩井さんはその分析におけるデータサイエンティストの役割にも触れた。これらの知識は、業界や職種への興味喚起への導入線だ。
自然言語処理を使ったトレンド分析の現状とは
ここまででも学部生にとっては十分な内容ではあったが、授業の白眉はこれからだった。岩井さんの自然言語処理や統計処理における専門性が、実際の業務でどのように発揮されているかを語るパートだ。
広告代理店が扱うデータは多岐にわたる。中でも岩井さんの専門領域は、自然言語という非構造データの分析だ。岩井さんは自然言語処理をするようになってからは、その面白さや奥深さに「ハマった」という。
自然言語処理とは、テキストデータを数値のように扱って処理できる技術のことを指す。アンケートなどのテキストから回答者の感情を分析したり、類似語を集めてクラスター分析をしたりすることができる。かつては手作業で行っていたから分析の精度には限界があったが、現在は分析手法や分析ツールが整備されている。
SNSの断片的なつぶやきや検索クエリに使われたテキストを通して、流行や関心などのトレンド分析もできるため、リサーチサイエンティストとして興味が尽きないのだろう。岩井さんはこう語っている。
「例えば、新型コロナウイルスに関する大きなイベントの発生と、ユーザーがそれに対してどのような感情を抱いたかの関係に注目して、パンデミックが人々に与えた影響という感情的な影響を明らかにしていく研究もあります。昔だったら質的な分析までしかなかなかいかなかったと思うのですが、今はこういう自然言語処理技術を使うことで、量的に分析が可能な分野になっています」(岩井さん)
文章を量的に分析可能にする手順としては、まず文章を最も小さなまとまり(形態素の集まり)に分割する。次に、1つの文章の中にどのような単語が出現しやすいのかを整理して、文脈による単語の出現確率によって、単語を数値表現(分散表現)する。
文章を単語ごとにベクトル化したことで、単語同士の意味的な計算が可能になり、クラスタリングなどを用いた分析が可能になるのだ。
その後は、クラスタリングして意味的なまとまりを作る。トレンドとして成立するクラスタを判別する。クラスタに名前をつけて、クラスタを用いたトレンド分析をするといったプロセスが続く。
岩井さんはこうした分析手法を用いて、YouTubeのアクセスログなどから得られた消費者行動ログデータとWebニュース見出しデータからトレンドを分析するツールを社内向けに提案してきた。
授業では、MeCabやWord2Vecなどの分析ツールの活用、ナイーブベイズ分類器を構築してトピックを分類する方法など、かなり専門的な内容も語られた。岩井さんは、こうした技術を通してモノ・サービスを売買する人間の行動分析ができることを説明することで、生活者の感情に配慮したトレンド広告を打てることを理解してほしかったのだ。
近年は大きなトレンドに対して、単に関連広告を打ったからといって成果が出るとは限らない。マーケティング分析は、「なぜ、消費者はそれを認知したのか」「なぜ購買に至ったのか」という、背景にある社会的現象の分析も含むものでなければならない。
そういった分析を踏まえて作られた広告が「よい広告」であり、結果的にそれが社会と生活者に対して新しい価値や体験を提供することにつながるのだ。
文系出身のデータサイエンティストの価値はどこにあるのか
岩井さんは、講義の最後を「データサイエンティストの仕事」というテーマで締めくくった。データサイエンティストとは、データサイエンス力、 データエンジニアリング力をベースにデータから価値を創出し、ビジネス課題に答えを出す「プロフェッショナル」であると定義。その上で、プロフェッショナルは体系的にトレーニングされた専門性やスキルを持ち、それをベースに顧客に価値を提供する人であると述べた。
「ひたすら経験し勉強することでしか、これらの力は総合的に育ちません。一朝一夕ではない分、実は言われているより参入障壁が高い仕事なのかもしれません」(岩井さん)
そう語る彼女の言葉は意味深い。岩井さんは経済学という社会科学畑の出身で、数学、工学、エンジニアリング、コンピュータ・サイエンスといった理系出身ではない。だが、社会科学を学んだ人間がデータサイエンティストになることについては、積極的な意義を見出している。
それは、社会の仕組みに対する洞察力と、得られた回答を人間社会の現象に沿って翻訳する力を、理系出身者以上に期待できることもあるからだ。
「私たちは、分析によって得られた結果を、具体的なソリューションとしてお客様にお返ししなければいけません。そのためにはドメインに縛られない幅広い知識や、言葉が必要です。分析によって得られた数字を数字のままお示しするのではなく、知識を用いてその数字を、背景にある人間社会・企業群の現象に翻訳し、言葉でもって解決をご提供することが、お客様への貢献であると考えています。」(岩井さん)
岩井さんは熱を帯びた表情でそう語る。そして、「もし広告・マーケティング業界で働きたいと思う人は、学業以外にもぜひ以下に取り組んでみてください」と、次の4つを挙げて授業を終えた。
1.R・Pythonなどの無料の言語で一通りの計算をこなせるようになること
2.ネット上にある分析練習問題などの一連の分析手続きに自分の手で取り組むこと
3.教授・先輩に言われた本を読み終えておくこと
4.同じようなテーマに興味がある友人・教授と交流をもっと深めること
3については、社会人になってから読むべきと言われる本の何割かは、教授や先輩から読んでみたらと勧められた本だった。良書は年代を通じて読まれているので、学生時代に勧められた本には、早い段階で眼を通しておけば、社会人になって忙しくなってから読むよりも効率的ということだ。
4は、情報や技術の移り変わりが激しいAIやデータサイエンス分野の新しい分析手法や新しいニュースなどの情報感度を高めるには、同じような関心を持つ人間関係を深く広く持つことが一番早いという意味だ。ここには岩井さんの実感が込められていた。
これは学生ばかりではなく、異業種・異職種からデータサイエンティストを目指す人にも貴重なアドバイスになるだろう。参入障壁は高いものの、AI時代にも価値が失われない、AI時代からこそ真の魅力を発揮するからだ。
大学時代の自分に話すように講義ができた
講義後は、学生から岩井さんへの質疑応答の時間が設けられ、いくつかの質疑応答が行われた。
「文系でデータサイエンスを目指す上で、壁になりそうなことや、逆に強みについて知りたい」という質問があった。
それに対して岩井さんは、「数学に親しみの少ない文系の場合は、統計処理や分析の勘所が、最初はつかめないことがある。しかし、これはデータを見る経験や勉強を重ねることで克服可能となる。主観ではあるが、文系の強みは多面的に情報を集めて資料や文献を読み進めることができることだと考える。周辺分野も含めた情報収集力やリサーチ力を武器にしてほしい」と答えた。
「中小企業のマーケティングリサーチ会社でインターンをしていて、テキストの形態素分析をやった経験もある」という学生は、「ツールを使って分析をやりすぎると、頭を使わなくなったり、クリエイティブな発想が出てこなくなったりするのでは」というジレンマをもっていることが相談された。
それに対して岩井さんは、こう答えている。社会人ならではの割り切りも感じられるが、その学生にも、その言葉の真意を知る日がいつか来るに違いない。
「一度は手動でデータを触って分析すること。その大変な経験をした上で、効率化ツールに手を出す方がいいと考えています。手続きを1から100まで知っている人と、最初から100番目の手続きしか知らない人とでは頭の使い方が大きく異なります。 仕事の上では、手動と自動どちらでやるべきかは、業務量と利益と業務の質に合わせて使い分けをせざるをえません。具体的には、手続きが明確で本来人がやらなくても良い業務は自動化によって積極的に工数削減をすることが望ましいと思います。一方で、人が関わらないと価値が出せない業務においては人が主となりクリエイティビティを発揮するための補助機能としてのAIや自動化ツールの導入が良いでしょう。」(岩井さん)
講義を終えて岩井さんは、講義資料を作っているときに、大学時代にこんな資料を使って教えてくれる先生がいればよかったと笑う。だが、当時の自分がいかに社会のことを知らない学生だったかを改めて知れたという感慨もあり、「今日は昔の自分に向けて話すような感じで授業ができた」と振り返る。
今回の授業は、広い意味では学生に向けて博報堂テクノロジーズの認知度を高め、新卒採用マーケティングに繋げるという狙いもあった。授業を担当する水野教授によれば、「世の中を変えるようなコピーを書きたいなど、広告クリエーター志望の学生は昔に比べると少なくなった。
特にインターネット広告はデータサイエンスを使う時代だから文系の学生は苦手意識を持っているかもしれない」と指摘する。しかし、今回の授業で岩井さんはデータサイエンスのクリエイティブな側面や、それを追求することの魅力も語っていた。
学生たちにも、現代の広告業界を捉え直す新しい視点が生まれたのではないだろうか。実際、授業後の岩井さんに対して熱心に相談する学生も見られた。
「マーケティング・テクノロジーをやりたい方は大歓迎です。業務においてはその知識が前提として必要になりますが、それ以外の強みや専門性を持つ人も活躍できるフィールドがあると考えています。広告には絶えず新しい視点が求められています。そのため、広告とは全く違う知識や経験が業務のどこかで活きてくるはずです。その意味で、「大学の勉強と広告は実は地続きである」ということを、伝えることができてよかったです」(岩井さん)
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